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10月, 2012の投稿を表示しています

愛される

2、3年前にイギリスにに行った親しい友人にもらった写真・・・  綺麗だ。そして歴史を感じる。心が洗い流されるような気分になる。  それもこれも、心から愛されるような写真だった。整理をするといろいろな写真を見ることができる。 過去と他人は変えられないが未来と自分は変えられる。それを実感した。気分がよい。

空を見上げよう。

空は無限に見える。心も和む。だから、空をみることがスキだ。 いつも見上げているわけではないが、下を向くより空を見ながら歩きたい。 こんなことを書くとロマンチストに聞こえるがそんなことはない。 上を向いて歩こう。涙がこぼれないようになんて聞こえてきそうだが、それとは一寸違う。空を見ると無限でそして勇気を与えてくれるような気がするのだ。 だからこそ、空を見ながら歩きたいと思う。勇気がわいてくる。

瑞垣湖に思う。

山梨県の瑞垣湖去年の冬に撮影したものだ。昔は、完全に氷で覆われていたそうだ。今年はどうなるなのだろうか。  やっぱり地球温暖化を身近に感じるようになってきた。文明の発展は、化石燃料を大量に使う発展と言っても過言ではない。  結局、化石燃料の消費は、地球全体に悪影響をもたらしている。人間の英知で解決できるのだろうか?その辺は素人なのでわからない。 挑戦すれば、成功もあれば失敗もあります。でも、挑戦せずして成功はありません。何度も言いますが、挑戦しないことには始まらないんです。(野茂英雄)  それでも、わからないとも言っていられない。素人なりに挑戦せずには何も始まらない。瑞垣湖の写真を見ていてこんなことを思い野茂の言葉を思い出した。

人には見上げる夢が

  鬼瓦は、棟の末端に付ける雨仕舞いの役割を兼ねた装飾瓦で、同様の役割を持つ植物性や石、金属などの材料で葺かれた に用いられるものを「鬼板(おにいた)」というが、鬼面が彫刻されていない鬼瓦も鬼板という。一般的に鬼瓦といえば、鬼面の有無にかかわらず棟瓦の端部に付けられた役瓦のことをいう 。   元来家を守るものだというのでいろいろな形がある。 しかし京都には、いろいろな鬼瓦がある。 そうい うものも見ていると興味深いものだ。日のの伝統文化の一つなのだ。  人も同じで、誰かに守って貰いたいという気持ちがわいてくるのを否定することはできない。そん なことを考えていた時に、 いまこの1秒の集積が1日となり、その1日の積み重ねが1週間、1ヵ月、1年となって、気がついたら、あれほど高く、手の届かないように見えた山頂に立っていた、というのが私たちの人生のありようなのです。(稲盛和夫)    高いところにあるお守りの鬼瓦は、きっとここまで上っておいでと言っているように思う。人生の指標に感じるのは自分だけだろう。でも、この何百年もかわらない鬼瓦をみていると必ず上ってやるぞと言う気になるのだ。そんなことを思うと、また京都に行きたくなる。おかしなものだ。  

伝統

このお茶屋は京都の老舗。伝統を守って続いている。 伝統の良さは、人の命のあまり関係ない。それは働く人が代々受け継ぐものだから人から人につながっていくものだ。 「どうせ死ぬんだから、せめて生きている間は楽をしよう」という考えは僕の場合逆でさ、「どうせ死ぬとき楽になるんだから、生きている間はとことん辛く生きよう」というのが僕の考え。(北野武) どうせ”死んだら楽になるのだからこそ辛く行きよう”だからこそ伝統はつながれていき,歴史は作られていく。

切り開く道

 今写真を整理している。いろんなところに雑然と置いていたものだ。これは、確か3年ぐらい前に増富温泉から長野に向かう間単線だったような気がする。 そんな中でレトロチックな感傷に浸ったことを思い出した一枚だ。確か冬だったような気がする。 やり方は三つしかない。正しいやり方、間違ったやり方、そして俺のやり方だ。( ロバート・デ・ニーロ) こんな言葉に出会った。いやはや、正しい道、間違った道、そして自分の道を切り開くの3つがあるのだということを教えられたような気がする。 こんな単線の鉄道をみていたら、こんな言葉に出会った。切り開く自分の道は正しい道と信じて生きていきたいものだ。

心にしみる

この頃思うのだ。夕日をみるたびに心の洗浄を。 といいつつ、なぜか洗浄することができない自分がいる。 そういえば、”夢は逃げない。逃げるのはいつも自分だ。”心にしみる。